いまだに江戸時代の「理想の教師像」を推戴してる文部科学省
教師や教育に関するニュースを探してみると、ほとんどが「教師の資質」に関する話ばかりです。
実際に文部科学省自体、かろうじてそれに近そうなアウトプットを探しても「研修履歴を活用した対話に基づく 受講奨励に関するガイドライン」(令和4年8月)しか出て来ません。この中には「教育技術」の話は一切なく、あるのは「教師の資質向上」の話ばかりです。
つまり日本の教育は教師という職業をいまだに「高い人間性」という資質が必要だという江戸時代のパラダイムから全く抜け出せていません。
これは、あるいは奈良時代の「教える人=僧侶」のパラダイムまでさかのぼれるかも知れませんが、少なくとも江戸時代の教師=高潔な人間性の持ち主、ということから一歩も踏み出せていません。
私が考えるには、多分、だから日本の学校教育は効率が悪いのだと思います。
教師とは「教える技術者」
教師とは「教える技術者」です。「自分の人間性の高さによって教え子に感銘を与える者」ではありません。
もちろん立場を利用した幼児、少年少女への性的加害は当然許されるものではありませんが、それとは別に「素晴らしい人格者」が教師の目指す姿ではありません。教師にとって最も必要なものは「効率よく(つまり分かりやすく)」知識を与えることと、教えられる側の「思考力を高める」ことを可能にする技術を持っていることです。
「教師」だから高潔な資質を持つ必要はありませんし、そのような超・人格的な変化を大学の4年間の教職課程で教えることなど不可能です。そのような資質は人間個々の属性であり、そもそも何年かけようと教えられる類のものではありません。
可能なのは、本当にそのような高潔さを本来的に持っている人間が教師になり、その「姿」を見せて「教える」しかありません。たとえば松下村塾における吉田松陰のようにです。しかしそれは奇跡的な人物が生まれ、たまたま教える仕事をした場合だけ成立することです。
そのことを文部科学省も、父兄も全く分かっていません。
教師に必要な技術は「教室運営力」
教師に今、最も必要な技術は「教室という組織の運営能力」です。たとえば、がやがやと集中力が失せている教室を、たった一言で集中させる技術であり、知識を整理して理解させる技術であり、生徒をリラックスさせて「最も知識を理解できるメンタル状態」にする技術です。
しかし私がもう30年も前に大学で受けた教職課程にはそのような授業は皆無でした。それは、非常に情けないことに、文部科学省の報告書を見る限り、いまだに「資質」優先論という、何百年も前からの「理想の教師像」実現を目的にした「教師教育」で留まっています。
私たちは「インストラクション・スキル」として、「効率よく物事を教育するための『すべて』をどのように整える」ということを教えられますし、私たちが派遣する講師は、全てその研修を受けないと現場には出しません。
「教室運営技術」とは何か
私が言う「教室運営」技術とは、がやがやした教室で「静かにしなさい!」と注意することの代わりに「はい、まず、お口を閉じましょう」「次におへそをこちらに向けてください」というような、非常にリアルなテクニックです(もしも今、生徒を集中させられない人は、これを試してみてください。その効果に必ずびっくりします)。
あるいは、知識を頭から押し込むのではなく、簡単なゲームを実施して、その体験をレバレッジに「気づき」を生徒の中で起こす技術でありカリキュラム作成力です。
私たち、ヒューマンパワー研究所では実はそのような、いわば「インストラクション・スキル」をたくさん持っています。
私たちの用意している研修を担当する人間は、「何を」教えるのではなく「どうやって」教えるのか、ということを徹底して訓練させられます。それは私自身が作成した「インストラクションマニュアル」に沿って、教室のコントロールの仕方、教えられる側の集中力の維持の仕方、気づきを生むカリキュラムの作り方などを、3日間徹底して教え込むものです。
それらは全て「学習心理学」に根差していますから、非常に科学的であり、「伝承芸能」ではありません。
だから、企業セミナーなどを実施した後に、アンケート調査を行うと、その研修で教えた技術の浸透率が非常によかったり、「楽しく受けられました」という感想がとても多いのです(私たちは別に研修の中で「面白い」冗談などは全く言いません。ただ相手に「気づかせる」技術を使って教えているだけです)
「教える技術」を持たないで教えている素人が多すぎる
そういう意味では、そのようなことを全く教わらず、ましてやそのような技術が存在し非常に重要だということも知らずに「教える」仕事をしている人が余りに多すぎます。
そのような現代を考えると、私たちは「インストラクション研修」もしなければならないのだろうな、と思います。