チャーリーブラウン好き。

大の大人がかなり恥ずかしいのですが、私はスヌーピー好きです。

私の部屋の本棚の一段はスヌーピーのほかいわゆる「ピーナッツ」シリーズのフィギュアが数えたことがないのでわかりませんが、多分数十体並んでいます。

本棚だけではなく、パソコンに接続しているスピーカーの上にも左はスヌーピー、右はチャーリーブラウンが立っています。

一体1500円くらいしますから結構な出費です。

テレビで部屋中にぬいぐるみを置いている大人など見ると「馬鹿だなあ」と思うのですが、自分の方が実はよほど馬鹿なのです。

しかし実は本当に好きなのはスヌーピーではなく、チャーリーブラウンです。

チャーリーブラウンの何とも言えない情けなさ、人生のうまくいかなさが、自分と重なるのです。

彼は学校の「赤い髪の小さな女の子」が好きで、話しかけたらどうなるかな、昼食時に隣に言って座ったらどうなるかな、と妄想するのですが結局妄想だけに終わっています。

バレンタインデーにはたくさんのカードが来るに違いないと自宅のポストの下で待っていますが、一通も来ません。

自分で野球チームを持ってピッチャーをやっていますが、やたらとホームランを打たれ、たいがい48対0などという、ラグビーのようなスコアで負けています。

ほかにも情けないシーンは山ほどあるのですが、これらの全てが自分を見ているようで、愛おしいのです。

自己愛、などと言うものは私は持ち合わせていませんが、自分に似たものを見ていると何だか切なくなるのです。

私は、またこの話はいずれきちんと書きますが、実は詩も書いていて、いずれ詩集を出すときには、「チャーリー」というタイトルにして、1ページ目にはこの詩を載せようと思っていたほどです。

暗い嵐の晩だった
孤独は孤独を癒し
皮肉は皮肉を嗤い
笑いは笑いを駆逐する

君はそうして少年の僕を慰めてくれた
野球が下手だっていい
赤毛の女の子に告白できなくたっていい
弁当がピーナッツバターサンドだけだっていい
バレンタインカードが一枚も来なくたって

いつか雨雲が晴れて
輝くピッチャーズマウンドが君を迎える
その先は一人で歩いて行け
君の友達はいつでも屋根の上で待っている

漫画のチャーリーブラウンが今後どうなっていくのか、ということは作者のM・シュルツが亡くなったのでもうわかりませんが、私の中のチャーリーブラウンはいつまでも情けなく、橋の欄干にもたれて、友人のライナス相手に、「自分が嫌になるよ・・・」とつぶやいているのです。