校外授業って意味があります?

校外授業の意味って何ですか?

多くの小中学生、高校生は授業の一環で、校外授業を受けますよね。

私も田圃に田植えの見学に行ったり、美術館に行ったりしましたが、それが自分の身になっているかと言うと、結構疑問です。

田植えを見ても「ああそういうものか」とイメージが湧くようになりましたが、だからと言って田植えの大変さ、重要性、面白さが分かったわけではありません。まあ小学生なんて、そのくらいのものだと思いますが。

そういう意味では「修学旅行」というものも意味があるのでしょうか?

私の修学旅行はほとんど無意味でした

私は中学校からの受験組で、自分で言っても過去の栄光に過ぎませんが、県で1、2という進学校に行く頭を持っていて、なおかつ日本史も好きだったので、中学生にしては知識があった方だと思います。

しかし、それでもが中学3年生の時の京都、奈良の定番修学旅行コースでは、ほとんど何の感慨もありませんでした。

今なら、中学生以上に知識が入っていますし、人の人生について考える感性もありますので、鑑真は5回も来日に失敗して失明までして何故日本に来たのだろう、とか、日本の仏教を指導する立場として来たはずなのに、「政治関わる煩雑さから解放する」という名目で、唐招提寺に押し込められて戒律も与えられない普通の僧侶になってしまって、どんな気持ちだったろう、とか考えられますが、中学生の時は単に「何だか屋根の大きな寺だな」くらいしか感じませんでした。

ただ夜、熱を出して先生に京都市立大学病院に連れて行かれたら、看護師さんが怖かった、というトピックは強烈に記憶に残っている程度です。

それなら、1人づつ海外でホームステイさせるか、語学留学させた方がよほど投資効率がいいでしょう。

私立などではすでにそのようになっているみたいですし、私の出身校も修学旅行はカナダ、その後語学留学のチャンスも用意されているようで、本当にうらやましいです。

まあカナダに行っても、「おお、これがメープルシロップの木か」くらいしか感じなかったかもしれませんが。

外国人修道士の教師は歌がうまかった

さらについでなので、校外授業に関して恨みがましいことを書いておくと、私の出身校は猪苗代湖のほとりに自分のキャンプ場を持っていて(まあ単に湖沿いの土地と、集会場みたいな建物が1軒あるだけの「キャンプ場」でしたが)、毎年夏休みになると、そのキャンプ場に1週間放り込まれました。

そこで、テントの建て方(今のようにワンタッチのものはなく、杭を立ててロープを張ってという奴です)や飯盒炊爨を嫌でも覚え、ボートも漕げるようになって大人になった時にデートでボートに乗った時に困らなくなった、という程度の知識と技術を身に付けましたが、ボート以外はそれから40年間の人生に全く生かされていません。

キャンプファイヤーも派手に火を焚いてやりましたが、ほぼ記憶から飛んでいます。

数少ない記憶は、ある晩ものすごい夕立が来て、どのテントも屋根の勾配に雨が溜まって倒壊し、みんなで食事棟に避難したことと、キャンプファイヤーの時に修道士の英語の教師たち(私の学校はカトリック系で、英語の教師の半数がなぜかフランス系のカナダ人でした)がギターで歌い、それがものすごくうまく、ハモりもきれいだったことです。

やっぱり言葉が通じない国に赴任して布教する時には歌で相手を感動させるのだな、と思いました。

スヌーピーの出てくる、チャールズ・シュルツのピーナッツシリーズでも、毎年チャーリーブラウンも妹のサリーも「サマースクール」に送られて「まるで囚人のようだわ」と言っていたのことへ、大きく共感したほどです。

修学旅行は下見旅行で教師を接待するため?

夏のキャンプは別にして、修学旅行はその前に、旅行会社が担当教師を連れて下見旅行に行き、そこで上げ膳・据え膳で、場合によっては楽しい夜のコースで接待なんかもして、思いきり教師が接待されるので、それが目的で修学旅行がされていたのではないか、と勘繰りたいくらいです。

まあ今の留学旅行は、少人数グループで出発点からゴールまで自由に話し合いながら決まった日数でたどりつく、というように変わっているようで、少しは進化しているみたいですが、でも何の感慨も持たずに美術館の中をがやがやと通り過ぎている校外授業はなくなっていません。

教師たちはあれに価値があると思っているんでしょうか。